『愚者のエンドロール』米澤穂信

愚者のエンドロール (角川文庫)

愚者のエンドロール (角川文庫)

ナンバーワンよりオンリーワン」とかいう例のあの曲を耳にする度に、どうしても「それって勝者の理屈だよなあ」と思ってしまう。むしろ、順番が逆であって、自分が唯一である実感が得られないから人は一番を目指すんだから。もちろん、ACのCMばりに「あなたにここにいて欲しい」とか言われて、それを信じられれば話は早いし簡単なのだろうけれど、そう上手くいくもんじゃない。人と人とが理解しあうことは出来ない。絶対に出来ない。だから、不特定多数に価値を認められるナンバーワンを人は目指さずにはいられないんだろう。
前置きが長くなった。米澤作品の主人公たちは、こうした競争から距離を置いている、或いは置こうとしている者たちだ。小市民を目指す小鳩君しかり、犬探し専門の探偵事務所を開いた紺屋しかり、そして省エネ人間である奉太郎しかり。しかし、彼らはいつだってままならない。まず外部の状況がそれを許してはくれないし、そして彼ら自身もジレンマに陥ってしまうからだ。競争に参加していない彼らは、既存の価値体系においては評価されない。故に、彼らはどこかで孤独で、だからいつか疲れてしまう。そんなある日、事件は起きる。否応無しに状況にコミットしてしまった彼らは、そこで自分が距離を置いてきたものに改めて触れることになる。もちろん、彼らの生き方が、既に確固としたものであればいい。何の問題もない。けれど、人間、そんなに自分に自信は持てないもの。米澤穂信は、そうした彼らが、揺らぎ、悩む、その瞬間を描く。
この『愚者〜』は、奉太郎たち古典部の面々が、ある未完成の映画の導入部を見せられ、「あの事件の犯人は、誰だと思う?」と訊かれるところから始まる。作者があとがきで言うように、『毒入りチョコレート事件』ばりに*1仮説が提示されては崩し、の連続となる。その、仲間内で、ああだこうだ論じている様は実に賑々しくて楽しい。個人的に感心したのは、その反論部分で、特に七章での各人各様のアプローチでの否定の仕方はキャラクターらしさという部分でも、純粋に論理という点においても、上手くてはっとしてしまった。最後の結末に関しては、ちょっと青臭すぎるきらいはあるけれど、それでもそこが持ち味だと思うし、少なくとも俺にはちょうどいい塩梅だった、ので、まあそういうのが嫌いでなければお奨め。ちなみに、そういうの、とは庄司薫から連綿と続く内省的な青春小説、ぐらいの意味合いで理解してください。


なんだか、長く書いていたら多分に的外れになってしまった気が……。まあ、こういう読み方をした人もいますよ、ぐらいのニュアンスで適当に流してください。それにしても、無駄に長いな。こんなん誰が最後まで読むんだろう……。ああ、不毛だ。 

*1:とはいえ及んではないけれど。もちろん、あちらが偉大過ぎるだけで、それをあげつらうのは酷というものでしょう。