『隣の家の少女』ジャック・ケッチャム

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

何が悪いかといえば、息抜きにこれを選ぶのが悪い。気分転換になるわけがないことくらい、読む前からわかっていたってのにね。
さて、この作品についてある程度でも知っていれば、冒頭のボヤキに些かなりとも理解はしてもらえると思う。知らない人のために、端的に言うのなら児童虐待の話、というのが恐らく一番わかりやすいのだろう。以下、粗筋。
長閑な田舎町に住む12歳のデイヴィッドはある日、美しい少女、メグと出会う。彼女が隣のルース・チャンドラーに引き取られたのだと聞き、喜ぶデイヴィッド。しばらくしてルースのメグに対する仕打ちを目の当たりにした彼は、しかし傍観するしかなかった。やがて、それは彼やその友人たちを巻き込んでいって……。


この作品の最もおそろしいところは、私たちが思っているほどに世界は因果に支配されてはいないかもしれない、ということだ。
時折、ニュースを見ていて思うことがある。何か凄惨な事件が起こった時、専門家とやらの語る御高説――「いじめが……」とか、「家庭環境が……」とか、そういうやつ――それらは全て、結果論ではないのか。つまり、原因があって結果があるのではなく、結果があって原因が作られるのではないのか。
作中で子供たちを先導/煽動するルース。作中において、彼女がどうしてメグに対して酷い仕打ちをするのかについての理由は語られていない。否。語られてはいる、確かに語られてはいるのだが、その理由は貧弱に過ぎ、決して解答足り得ていない。心理学者がいかにも満足しそうなトラウマなど、作者は用意していないのだ。(ちなみに、その点を以って、作者の力量不足とするのは見当違いである、念のため)
或いは、ここでルースをサイコパスと考える向きがあるかもしれない。それは決して間違ってはいないのだろう。しかし、理解できないものを「理解できないもの」として片付ける、それは思考停止に陥っていることにほかならない。少なくとも、私はそう考える。
むしろ――、と私は思う。むしろ、私たちが狂っていないことのほうが奇跡ではないのか。お互いに理解しあえるという錯覚に陥れていることの方が、幸福な偶然ではないのか。
――こんな考え方は、悲観的に過ぎるだろうか?
そんな中で、主人公であるデイヴィッドだけが最後まで私たちにも理解できる存在であり続ける。卑劣で矮小で当たり前の少年のままで。そして、それは救いなどではない。ましてや、作者の良心などでもない。光がなければ闇を感じられないように、それは陰惨さを照らすための小さな明りでしかないのだ。
この物語には、ヒーローも神様も存在していない。いや、神様ぐらいはいるのかもしれない。だが、それは残念ながら機械仕掛けではなかった。最後、物語の幕引きをするのはデイヴィッドであり、そして彼はヒーローでも神様でもなく、ただの無力な少年に過ぎなかった。つまりは、そういうことなのだろう。
この作品が好きであるとは決して言えない。これほどに読後感の悪い小説などないからだ。しかし、それでも私はこの作品を読んで欲しいと思う。これはきっと、あなたという物語と無縁のものでは決してないだろうから。


評価:A

……とまあ、このくらい大上段に構えた感想の方が好ましいのかなー、などと思いつつ結局お終いに照れが入る自分が何ともはや、意気地がないにも程があるなと愚考するわけですが、まあボヤいてたらキリがないのでここで終わりにしてしまう。とってんぱらりのぷう。